Histroy

1350年の歴史が紡ぐ町

すのまた

時代を越えた物語がここに息づく

墨俣町の歴史は、今から1350年以上も昔に遡ります。

この町には、古代から現在に至るまで、
歴史上の重要な舞台となり、数々の困難に打ち勝ってきました。

壬申の乱での伝説、由緒ある神社や寺町のエピソード、
そして豊臣秀吉の一夜城と大名行列…。

活力ある町人たちが旅人をご縁で紡いできた物語が、
今訪れる人々を古の世界へと誘います。

豊臣秀吉、出世の第一歩
墨俣一夜城の伝説
室町〜安土桃山時代

織田信長の家臣であった木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、1566年(永禄9年)美濃攻略の拠点として長良川と木曽川が交わる洲俣(すのまた)に城(とりで)を築きました。

この築城は、家臣たちが何年もかけて試みるも一度も実現しなかった偉業でした。知恵者の秀吉は、日中に工作の動きをしては敵に知られることを危ぶみ、砦の用材を木曽川上流からイカダで流し、墨俣に船で運んだのです。よって、美濃攻めの要塞(城)は、またたく間に完成しました。

この功績を大いに喜んだ信長の引き立てによって、秀吉は天下統一を成し遂げます。その築城の早さから「一夜城」と名付けられたこの城は、庶民から身を興して天下人となる下克上や出世の象徴とされ、今でも多くの人の希望のシンボルとなっています。

鎌倉街道から美濃路へ
大名行列にみる墨俣の栄華
戦国〜江戸時代

天下分け目の戦い・関ヶ原の合戦は、徳川家康(東軍)が勝利し、豊臣秀吉に忠義を立てた石田三成(西軍)が敗退しました。その勝利の行軍に使われた「吉礼街道」は墨俣を通っており、1602年「美濃路」という脇街道として東西の往来に使われることになります。
というのも、西からの追軍を恐れた家康が橋をかけるのを嫌ったため、全ての旅人が船で川を渡る必要がありました。1km川下の鎌倉街道より川底が浅い美濃路・墨俣宿は重宝されたようで、本陣・脇本陣は大垣城下のものより大きかった事がわかっています。
さらに南北の舟運では、急に浅くなる長良川の船荷の積み替えが必要となるため、物資流通のポイントにもなりました。一夜城に並列して存在する白鬚神社は、その舟運を祈る神社です。
こうして墨俣の町は、参勤交代の大名行列・お茶壺道中・朝鮮通信使・琉球使節・西から江戸に向かう商売人とさまざまな人の往来で大いに栄えました。遺された関札から、特に紀州様(和歌山の紀州徳川家)がよくお泊まりになりました。

濃尾震災と消えた川町
明治〜大正、昭和時代

1891年美濃地方を襲った日本史上最大級の濃尾地震は、M8.0の威力で墨俣の街を破壊しました。全壊60%、残りの全戸も半壊と、100%の被害が記録されています。瓦礫にたたずむ本町の写真が、当時の惨状を表しています。その後安藤家(脇本陣)はすぐに再建され、近隣の商家や寺も徐々に復興していきました。しかし昭和初めの河川計画により、長良川沿いに再興されたばかりの商店や料理店の多くがわずか30余年で新しい河川(犀川)の堤防に埋まる計画が決定。その代わりにと、墨俣町民から出されたのが長良大橋を架けることでした。これにより、鎌倉街道時代から続いた墨俣の渡船し場は消滅し、運送は水運から陸運へと近代に合わせて変遷していきます。

歴史を刻む
社寺の町と桜堤防
明治〜令和時代

大正時代には、地震で倒れた社寺仏閣の再建がなされました。寺町界隈には欄間や彫刻をそのまま残した社寺、往時をしのぐ熱量で丹精込めて再建された社寺などが並び、一帯が大垣市景観遺産に指定されています。また、一夜城とその周辺の自然の風景も同じく景観遺産として登録。美濃路堤防上の堤防沿いの松並木は戦中に伐採され、戦後復興を願った旅館や飲食店が桜を植えてきました。今では「墨俣さくら堤防」として花の名所となり、樹齢80年近い桜の木は大垣市が大切に調査・保存に努めています。往時の賑わいを今に伝える墨俣の自然は、名もなき町人が連綿と繋いだ心意気を今に伝えています。

すのまたの歴史ある神社
創建は不明ながら、古事記や延喜式神名帳に記載された墨俣の官社
白鬚神社
主祭神/猿田彦大神
墨俣町墨俣1735番地の1

一夜城北側に祀られた神社。猿田彦は道案内の神。白鬚神社は舟運を祈る神社。東西の旅人と南北に行き交う川の流通を支え続けた道しるべの神社。
10月初めの日曜に秀吉出世まつりが行われ、地域の子供から大人までがそれぞれの力を発揮するパフォーマンスや出店でにぎわう。側には出世開運の神様「豊国神社」も祀られている。

墨俣神社(正一位)
主祭神/墨俣大神
墨俣町墨俣264番地

元来は墨俣の渡船場の付近に位置した。現在の建物は犀川の改修を経て昭和10年に移転。延喜式神名帳に「従五位下 墨俣明神」として記載される。地元住民の信仰の拠り所として大切にされ、毎年秋の祭礼(スポーツの日の前日)には神輿が町内を練り歩く祭りの出発地点となるなど、墨俣のシンボルとして大切にされ続けている。

八幡神社
主祭神/応神天皇(生394年頃)
墨俣町墨俣1番地

古墳で有名な仁徳天皇の父親である応神天皇を祀った神社。式運や出世開運を司ると云われる。特徴的なのは、階段を昇って本殿に立ち入れるオープンな神社であること。拝殿には歴史的価値が高い十一支の彫り物があるが、干支が一つなく、麒麟が彫刻されているのが興味深い。小松の宮様の御手植えの松の記念碑や書物から、多くの要人が拝殿したことがうかがえる。

不破神社
主祭神/火明命、応神天皇
墨俣町上宿384番地1

壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)は不破(現在の関ヶ原)を拠点に戦い、一時長良川まで追い詰められます。その際、洗濯中の女性がとっさに彼をたらいに隠し皇子は難を逃れました。勝利を収めた皇子はその女性を不破明神の化身と讃え、この神社が建立されたと伝えられています。また、美濃の不破氏の功績を称える意味も込められているという説もあります。

お問い合わせ

主催:岐阜大垣・美濃路すのまた協議会
e-mail:info@gifuogaki.com