OGAKI CITY
SCENIC HERITAGE


美濃路墨俣宿脇本陣跡(安藤家)
墨俣安藤家は、室町時代に北方城主を務めた安藤伊賀守守就(1503年生)の系列とされ、岐阜城の稲葉家、大垣城の氏家家と共に西美濃三人衆として知られる領主階級の一人です。安土桃山時代には名字帯刀を許され、美濃の蝮・斎藤道三や織田信長の武将を務め、力を誇りました。江戸時代には町民の身分となり造り酒屋を営むものの、参勤交代の宿として本陣・澤井家にならび脇本陣を務め、多くの大名らを迎え入れました。大きな行列では300人を超えたとされ、お泊りの道具「布団315組・火鉢30斗・畳46畳…」と名古屋饅頭3,000個が届いた記録も残っています。
このように、脇本陣を務めるには私財が多く必要だったため、江戸から令和まで400年続く歴史で屋敷が同地に遺っている例は少なく、特筆すべき家であると言えます。
濃尾震災直後(明治25年・1892年頃)に再建された母屋部分と、明治46年に増築された旧脇本陣の座敷は、倒壊前に建てられた家(延享2年・1745年頃)の古材が再利用されており、270余年の時を経て古の趣を今に伝えています。
三日に空けず大名行列が行き交ったといわれる墨俣宿には、町人が旅人を喜んで迎え入れる風土が今なお息づき、民家として現在も一般公開されています。


岐島屋百貨店は、大正時代に建てられたとされ、昭和5年から営業を始めた歴史ある商店です。建物は厨子二階(つしにかい)建てと本二階建ての二つの様式を併せ持ち、本二階部分には珍しい擦りガラスや波打つ手打ちガラスが使用され、大正ロマンを感じさせます。旧脇本陣の東に位置し、墨俣の街並み景観を象徴する存在。
現在は、墨俣つりびな小町めぐり発祥の店として、いき粋墨俣創生プロジェクトにより店先がギャラリーショップになっています。


寺町界隈は、墨俣の歴史と繁栄が色濃く残るエリアです。真宗大谷派の寺院5つと浄土宗の寺院1つが1km圏内に集まり、古くから地域の人の信仰の中心になってきました。飛竜梅で有名な光受寺、安藤家創建で脇本陣の門が移築されている本正寺、平安時代に天台宗の寺院として創建された満福寺、欅の丸柱や彫刻が見事な広専寺、橋杭笑地蔵が安置されている明台寺など、風格ある建築が織りなす静かな空間です。



津島神社は愛知県の津島神社からの分枝で、素戔嗚(スサノオ)の神(防火)が祀られています。その脇に江戸1791年、琉球からの使節団が墨俣宿を通過した際の記念の石燈灯が建てられています。海外からの使節団は、鎖国下にあった町民には初めての外国人。色とりどりの衣装やラッパ・チャルメラなどの楽器の華やぎは衝撃を持って受け止められました。日本に初上陸した象も美濃路を通過し、川幅いっぱいに繋げた木舟の橋をおっかなびっくり渡った逸話が残されています。

昭和8年(1933年)に建設された長良大橋は、長良川にかかる美しい曲弦ワーレントラス橋です。同時期に建設された揖斐大橋と構造が似ており、近代土木技術の象徴とされています。かつてこの場所には墨俣の渡船場があり、交通の要所でしたが、自動車の普及とともにその役割を終えました。長良大橋は街道から国道への転換期を象徴する橋として、近代土木遺産に数えられています。


木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が築いた一夜城の址地は、現在公園として整備され、歴史資料館としての墨俣一夜城が建っています。公園周辺には、隣町も含めると犀川堤防沿いに約6km続く桜並木(約800本)があり、春には花見客で賑わいます。また、あじさいも植えられており、初夏には彩り豊かな景観が広がります。
昭和初期には犀川改修が実施され、新水路(新犀川)、調節樋門などが整備されました。
この樋門は、犀川事件をはじめ多くの苦労を経て完成した遺産であり、当時の歴史を伝える重要な存在です。

鎌倉街道沿いの旧家(個人宅のため非公開)
下野家枝垂れ桜と蔵(水屋)
鎌倉街道にある奥田家は江戸時代から続く庄屋で、現在の母屋は大正10年(1921年)に建築されました。大型農家とつながる水屋は明治時代築造で、住居と倉庫の機能を備え、墨俣に遺る数少ない水屋です。また、鎌倉街道の北に面する下野家には、室町幕府第12代将軍足利義晴から拝領したと云われる樹齢約500年の枝垂れ桜が毎年春に花を咲かせます。樹高約8m 枝張り15m以上の丸いドーム型の樹形で、桜の時期は門からの観覧が許されています。